ゲームセンターがわたしにとって単なる遊戯場でないことは、おそらくこのブログを見てくださっている方はご存知だろう。幼少のころから学校や習い事になじめず、失意ばかりがこみ上げていた。これを拭い去り、光に変えてくれたのがゲームセンターと、そこにいた友人たちである。今でもそれは変わらず、懇意にしていただいている。アーケード業界が逆風にさらされるなか、ひじょうにありがたい。
近くにユニークなゲームセンターWGCができ、店長といろいろな話をするようになったことで、ゲームセンターのありかたについても少しまじめに(?)考えるようになった。これまではサービスの受け手としてゲームセンターを利用していたにすぎないが、もっと持続可能な、おもしろい場所にしていくにはサービスの提供者と受け手が相互にかかわり、あたらしいものをつくっていくのもひとつのやり方ではないだろうか。裏をかえせば、顧客が今のアーケード業界のサービスを受けるばかりでは、この業界は確実にしぼむ。時代の流行や法的な拘束や企業体制など原因はほうぼうにあるが、とりあえず「しぼむ」のは見えている。
考えたことはふたつあって、ひとつはコミュニティ化だ。今でもおそらく、ゲームセンター内で常連同士の交わりはある。ただ、それはゲームセンターを出れば雲散霧消してしまうことが多い。これをもう少し持続性のあるものにしてみる。わたしは「人とのつながりの少ない今こそ、住んでいる地域に回帰し、つながりましょう」というようなコミュニティ論に共感できないので、興味関心のある場として開かれたところを自分のコミュニティにしてきた。それがゲームセンターでありアトリエでありピアのコミュニティであり、文学サークルである。どれも家から遠くはないが「地域」というほど近くもない。わたしを構成するのに必要不可欠な場所だ。そしてアトリエ以外はオンラインでもつながりをもっている。
そういうものがあって、いろいろやってみて、結果として地域にも波及していく方が自然な気がしてしまう。「近くに住んでいるのでつながりましょう」というのは、やや突飛で乱暴な感じがしてしまう。地域で生きるのがうまくいかなかったのがわたしなのだと改めて思う。そんなことだから、家族や地域のように強くつながってはいないけれど、なんだか刺激的でおもしろく、大切なものを取り込み、交換しあえる場所というのが、多様化しつづける社会の中で生きるキーワードになるような気もする。
かんたんなところからいうと、関係ができてきた人たちとゲーム以外のことも一緒にやってみる、だろうか。たぶん他にもあるのだけれど、急に思いつくのはこれくらいだ。最終的に、ゲームをしなさそうな人も興味を持ってくれる仕掛けを作ることができたらもっとおもしろくなりそうだ。変な話かもしれないが、最終的にはおじいちゃんと孫がゲームセンターに来る光景なんかが見られたらきっとおもしろい。孫がおじいちゃんにやり方を教えながら遊ぶ。老後に持て余した時間を孫と過ごせる上に、経済を回すことができる。孫も人に「教える」という経験から自己効用感を得られる。祖父と孫の世代に挟まれた親も「行くな」とは言いづらい。ふたりとも、帰ってくると「元気になっている」のだから。周りの常連も寄り添って、子どもが育っていく……そして大人になったらその子どもが……というサイクルができる。そこまでゲームセンターという文化が生きているのか、そもそも今の家族形態が未来も持続しているのかどうかはあやしいが、こういう未来があってもいいんじゃないか。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。すきなことはつい語ってしまいます。だから800字でおさまる小さなエッセイはよいです。ゲームはむりです。
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