朝の電車を待っていたとき、向かい側のホームから大きな枯れ葉がおちた。
秋になっていないのに茶色い葉っぱなんてめずらしいなぁ、と見ていると、急にじじ!という音をたてて高く舞い上がった。向かい側のホームのひとはびっくりしていた。間もなくそれはホームの床に落ちて、またじじ、と鳴って、こちら側に向かっては落ちる動きを繰り返していた。
やがて二本敷かれた線路の間に落ちた。そこは日差しがよくあたる場所だった。ぢぢ、と弱く音を立てて横向きのまま足をばたつかせ、羽を開こうとしては閉じる。今まで生き物の死にかけた姿を見たことがなく、物珍しさからじいっと見つめていた。どうにかして飛ぼうともがく姿があまりにも健気で、しかし一方でどうにもならないことを察していた。
すると、特急の電車がこちらに向かってきた。強い風が起こり、電車が通過するとそれは消えていた。つぶれる音も飛んでいく音も聞こえなかった。それでも、他のものは依然として元気に鳴いて、死んだもののことなどかき消してしまいそうだった。
せみの寿命が短いことは昔から知っていたけれど、それを実感することは今までなかった。せみを強く認識するのはやかましく鳴いている間で、その数も多く、一週間でぴたりとやむことはない。今日死にかけのせみを見たことで、ついこの間鳴き始めたせみが、ほんとうにすぐ死んでしまうのだということが「わかった」のだ。
知識は実感を伴わないと徐々に物語化していく。何かの折にそれを感覚したとき、物語は質量を持ったものへと姿を変えてわれわれの前に現れる。そんなふうに考えているから、できるだけ多くのことを実感を伴ったものとして吸収したくなる。
とはいえ、知っていることすべてを感覚しようとするのはあまりにも無謀だ。たとえば歴史や宇宙のことなどは、それを実感して「わかる」ということが難しい分野ではないだろうか。そういったもののために、人間の想像力は備わっているのかもしれない。
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