◆口語で口語をきらう

会話をしていても文章を読んでいても、ことばの響きが気になる。以前、本を文字として読むか音として読むかという話を友人としたのだけれど、おそらく自分はその両方だと思っている。字体のうつくしさや前後のバランスも気になるし、音にしてみたときの響き方も気になる。こんな拙いエッセイでも流す文字をひらがなにするか漢字にするかで悩んだり、一文を音声にして読んでみてつっかかるところを修正したりしている。いまだ修行の途上なので、検討の余地は大きい。ちなみに前文の「いまだ」は「未だ」と悩んだ。
文章は見返して修正がきくものの、会話はそうもいかない。いちど音として出てしまうと回収できないので、ある意味文章より気を遣うかもしれない。わたしは会話が苦手で、おそらくそこまですきでもないくせに、絶対に会話を避けられない職場にいる。そんなことだと、とっさに出てしまった音に不快感を覚えることが多々ある。おそらく自分が過剰に感じているのだろうが、不快感というものはなかなか拭えないものだ。この不幸な機会を少しでも減らそうと、会話のときに気になる音を自ら観察してみた。
まず口語でありがちな「なんか」「とか」「みたいな」である。使い勝手がよく、どこに登場しても会話になじむのだけれど、それゆえにぽっと口から出てしまいやすい。これらは付帯することばを不必要にマイルドにしてしまうので、どこか無責任な雰囲気をまとってしまう。自分からこのことばが出てくるとすごく嫌な気持ちになる。ことばをまじめに扱いたいくせに無責任なのは、不祥事があったらやめればいいやと思っている人とあまり変わらない気がする。
もっといやなのは逆接が必要ないところで出る「でも」だ。これはなぜ出てしまうかよくわからないのだけれど、相手の言い分をいったん抑えてしまう気がして申し訳ない。しかもそのあとに自分の主張がないので「結局あんたが放った『でも』ってなんの否定だったの?」という思いにとらわれる。
これらを防ぐため、考えながらゆっくり話すように心がけている。これが功を奏して上記の語群は減ってくれたのだが、あまりにゆっくり考えてからしゃべるものだから奇妙な間ができてしまい、すこし不思議な空間が形成されてしまうこととなった。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。ゆっくりことばをやりとりできる人たちの存在がありがたい日々。

コメント

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com