読書をしたり、他の人の話を聞いたりしていると、いかに自分が狭い社会の中で普段生きているかを実感する。しごともそうだし、友人関係や余暇関係も広くはない。
とくに、しごとになるとしごとのサイズというか、そこのにある世界に適応してしまう。まるで、その役になりきるかのような憑依ぶりである。しかも、狭い業界の小さな会社であるから尚更だ。そのときはあまり他のことを考える余裕がなくなり、そこで「いい」と言われたことは「いいんだ」と思うし、「だめだ」と言われたことはまずったなと思うなど、悪い言い方をしてしまうと、洗脳されたような状態になってしまう。退勤してから冷静に考えると「はたして本当にそうだったのだろうか?」「他のやりかたもあったのではないか。」等々、思うことも当然ある。ただ、その渦中にいると気づけなくなる。この弱さを克服したい。考え方をかえれば、その場にあわせて動くことができるといった長所として映るかもしれないが、職場から離れんとしている今の状況下では、おおいに心が揺れ動いてしまうので精神衛生上よくないのだ。「本当の自分」などというとおおげさだが、社会から距離をすこし置いたところから自分をみている自分のようなものがいて、息苦しそうにその様子を見ている光景が浮かぶ。
さておき、先日『弟子』(中島敦の、孔子とその弟子にかんする短編)を読んでいたのだが、孔子のような聖人というか、仙人みたいな存在は、自らの置かれた社会集団の狭い広いをとわず、自分の見ている世界は変わらないというか、もっと大きなものを見ているというか、ハックされることなく生きていたのかな、などと思う。だから確固たる信念で仙人をしていられるし、ついてくる人々もいるのかなと。
あらためて、移ろう世のこと、しかも一定の社会集団のことにとらわれているようではよくないと感じた。ではどうしたらよいかというと、「そこではない世界」をつねにもって思い出すことなのだろうが、できるかどうか。井の中の蛙大海を知らずとはいうものの、蛙サイドからしたらそりゃあそうだといったところである。幸い、今の自分は友人と話したり、インターネットで情報をえたりして、海の一部を投影しながら井戸の中にいるので、なんとかそういった風にやっていけるといいのだが。
読んでくださり、ありがとうございます。自身の考えをかみしめて生きることは、他者と生きる上では誰しもあることだと思うのですが、なんだか今回の件については曲げてはいけないような気がしているのです。
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