おとついひとの誠実さにふれて、果たしてじぶんはどうであろうかと考える。こうやってすぐおきかえてしまうところはいいところでもあり、悪いくせでもある。よくもわるくも、周りに影響されやすいのだ。
だれかにとって誠実であるためには、ときにじぶんのできないことや弱みを見せなければいけないときがある。今回わたしが受けた一連の応対は、先生にできないことがあるために起こった。自らを開き、他者に伝えるのにはそれ相応の環境と勇気がいるように思う。少なくともわたしはそうで、あまり得意ではない業務も「わかりました」と二つ返事で応対してしまう。全くできないわけではないのだけれど、おそらくわたしがやらない方がいいようなこともつい受けてしまうことがある。そこには断ることの面倒くささもあるし、職場に対する閉鎖的な態度も影響している。職場にいるわたしはさながら能面のようである。ふだん付き合いのある人が見たらきっとおどろく。
他方で、プライベートでは比較的、誠実でいられる相手ができてきたような感じがある。自分にとって無理の生じる環境を徹底的に回避しながらその範疇でお会いできる方を大切にしようと思ってつきあっていたら、自然とこうなった。交友関係は今までより確実にせばまったけれど、じぶんを開示できる相手ができたこと、安心して対面できる相手がいること、何よりじぶんを開示するだけの勇気がついたことがうれしかった。
終わりに、じぶんにとってじぶんが誠実でいるかどうかを考えてみる。ひとにはできるのに、じぶんに対してはどうもじょうずに開示できていないような気持ち悪さがある。なにか本音を隠しながら毎日をだましだましこなしているような感じなのだ。そんなじぶんが、果たしてほんとうに他人に対して誠実でいられているのか?自問する。精神世界に置いていかれたわたしの残像は唇をきゅっと結んで、日常をこなす「わたし」をじいっと見つめている。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。今日から新潟にいきます。
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