■共闘する者

基本的に、やりたいことは周りがどう思っていようとつきすすむ方だと思っているが、それでも同志がいることをありがたく思うときがある。減量などの鍛錬や忍耐、継続の求められるものは、ちょっとしたことでだれてしまいやすいので、同志がいることで「やってるしな」と、やる方に意識を向けやすい……気がする。目標をきめて、取り組んだらグループチャットのような機能で共有する、といったスマホアプリもあるそうだが、スマホでできることを減らす(Xと距離をとっているのもその一環である)取り組みを一旦しているのと、見ず知らずの人間とコミュニケーションをとる気力がそもそもわかないこともあり、手が伸びなかったのだ。

ちょっと前にパートナーが筋トレにめざめ、食事もがんばっているということで、なんとなく会ったときにシェアしたり連絡をとるついでに話したりしている。情報も交換でき、お互いの視点もちょっと違うので、それだけで「がんばろう」となるわけである。チームスポーツをしたことはないけれど、彼らは目的も同じくしているので、こういうふうに絆が深まっていくのだろうか、などとぼんやり考える。

それと、苦痛というわけではないが友人から紹介してもらったFGO(スマホゲーム)も、イベントなどの情報を時々その友人が送ってくれ、続いているところがある。決してつまらなくはないのだが、このタイプのコツコツと毎日やっていくゲームというのがどうにも続かず、友人がやらなくなったらそのままフェードアウトするだろうな、と思っている(じっさい、我々のグループLINEが静かだったころ、不意に半年ほど冷凍睡眠していた)。

だいぶ話が飛躍してしまうかもしれないが、人間の悩みの大半が対人関係だとよくいわれる。関係が拗れることで、これまで一緒にやっていた、がんばれることをがんばれなくなったり、ばかばかしくなったりしてしまい、属するコミュニティから離れてしまうことも時に起こるだろう。人付き合いの狭い自分がこういうのもなんだが、もしかするとそのひとつひとつは孤立を生み出し、こじれたままでいることが反社会的な行動や孤立化につながるのかもしれない、と考えると、社会全体で考えると大きな損失なのかもしれない。もちろん、この間にはもっと細かいプロセスがあるだろうが、日々がちょっとずつつらくても「がんばろ」を続けていけるよう、あたたかい関係性を維持していきたいと思った。

読んでくださり、ありがとうございます。他方、それでもひとりでやっていることは、本当にすきなことなんだろうなと。

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