『とるに足りない細部』(アダニーヤ・シブリー著、山本薫訳)

タイムラインであがってきた本だっただろうか。なんとなく重たい本を読みたい時期で、まとめて買ったなかのひとつ(そのとき『なぜ、その子どもはおかゆの中で煮えているのか』『優しい地獄』『ギリシャ語の時間』を同時購入した)。

あらすじは端的にいうと、前半は1940年代後半、イスラエル軍の男が、アラブの遊牧民族であるベドウィン少女のレイプ殺人を行うまでの日々が描かれる。後半は、25年後、その事件の起こった日が自身の誕生日であると気づき、何らかの運命性を見出した女性が同僚たちの助けを借りつつ、被害者であるベドウィン少女側の語りの痕跡を探しに現地を訪れる。話の筋としてはこれだけなのだが、前半の男の行動のルーティンの描写の規則性も、時間経過に沿って起こる変化について、非常に細かく描かれている。読んでいて「こんなに書き込みが必要なんだろうか?」と思わされる。ただ、読み進めていくと、その所作のひとつひとつのもつ緊張感やその場の緊迫感が伝わってくる。リフレインする日々の中で、いともたやすく陵辱と殺人は行われ、第一部はぱっと幕をとじる。後半もそうだ。ただ、誕生日と同じだったからというところからスタートして、あるのかないのかもわからない「真実」を探しにいくという、軍の動きと比べれば白黒がはっきりしない蜃気楼のような感じ。少しモヤっとした感覚を抱きながら読み進めていくことになる。

著者はパレスチナ人なのだが、自身の作品について、ノンフィクション、歴史として捉えるのではなく、あくまでもフィクションとして捉えてほしいということがあとがきで触れられている。ものごとそれ自体の重みもさることながら、そこを丁寧に描写していきながら、特別すぎない。そこに「いた」人々や臨場感、緊張感が読み手にも伝わる。

タイトルである「とるに足りない細部」は作中の随所に見出される。読み進める中で、起こってくることは異なれど、自分たちの日々の構造も、そう大きくは変わらないなと感じられてくる。あらゆる大きな・小さなことがらがそういった「とるに足りない」ことの積み重なりや絡み合いで世界の像はできていくのだろう。任意のものごとを「特別である」と感じるかどうかというのは、その人個人が「とるに足りない細部」を、そこからの接点を見出せるのかどうか、その接点を見出せるかどうかも、感受性・価値観・生きてきた背景……さまざまな要素がうずたかく積み上がった結果、きまってくるのかもしれない。ただ、その一方で同時に、それらがとるに足りないものとして処理されてしまうことの虚しさ・儚さもみられ、後半で当該記事について拾い上げるきっかけがささいなものでも、拾い上げたことそれ自体は非常に注目に値するんじゃあないかなぁ……と、思った。皮切りに、ではないけれども、日々日々スルーしていくばかりの現実を生きていくにあたって「とるに足りない」とされている事実たちを見つめ直す機会をとってみると、日々の見え方も変わるのかなとちょっとだけ思った。

読んでくださり、ありがとうございます。話はそれますが、自分は誕生日が祖母の命日で、もういくばくもない時に顔を合わせてまもなく亡くなっておりまして、かつて実家との折り合いもあり、数ヶ月同居をしていた時期があったにもかかわらず、結果的にその事実がいちばんわたしと祖母とを近づけたように思っていて、些細ではありながらもそういうことも「細部」にあたるのかなと思いました。

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