友人の詩音氏がTwitterでつぶやいてるのをみて衝動借りした本。人工授精が当たり前となり、夫婦間のセックスを「近親相姦」としてタブー視する未来で、「近親相姦」によって生まれた主人公が生きていく話だ。
村田沙耶香は『コンビニ人間』のころから異性愛主義に対する懐疑をとなえていて、『コンビニ人間』で焦点となったのは現代の、いわゆる一般的な異性愛主義や、ある程度の年齢になったら正社員で働くものだとかいう世界に「適応できない」主人公を描いている。終盤に描かれる主人公のコンビニへの愛は、一種の狂気すら感じさせる。しかし、読み終えたあとは主人公のようになりたいとは思わないまでも、こういう生もありなんじゃないか。それどころか、彼女のような生き方を許さない社会のほうが狭量で「狂っている」のではないか。そんな気さえしてくる。
いっぽうで『消滅世界』は、異性愛主義を脱出し、どんどん変化していく家族観に「溶け込んでしまうこと自体」を狂気として描いているように感じた。『コンビニ人間』とはここが対照的だ。拒否していたはずなのに、するすると呑まれていってしまう。
後半、実験都市に越した主人公は、あらゆる大人が「おかあさん」であり子どもたちは「子どもちゃん」と、名もなく画一化された姿で扱われることに愕然とする。「子どもちゃん」が笑顔を作るときの筋肉の動きが寸分違わずおんなじであることに、気味悪ささえ感じる。だが、物語が進むにつれて主人公はその世界になじんでしまう。その適応っぷりは病的な気さえしてくる。
ここで、個が死んでいく感覚をおぼえた。平野啓一郎の誰かの対談にこれを語っている箇所があって、そのことを思い出した(元になる本がわからない)。個々の物体としてにんげんは存在しているのに、空虚な集合体になっていくような感覚。こうなってくると、それぞれのにんげんが別々で存在している必要があるのかどうか、疑わしくなっていく。
村田さんのように自分の主張をきちんと織り込んだ創作がでならどれだけすてきだろうと、読みながら悩ましいためいきがもれてしまった。いい出会いだった。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。読んだ記録だけでもじゅうぶんなのですが、なんだか考えたいときはエッセイにしてしまおうかと思います。
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