同じようなことばっかり書いているこのエッセイも通算573本目に到達。ということで音ゲーの話をしましょう。
「ここではないどこかにいきたい」と思うことがある。今のところ、いつかも、どこかも決まっていない。いつ、どこにいくにしても、周りの環境は大きく変わるだろう。そのとき、しごとの次に大きく変わるのが音ゲーのできる環境だと思う。今はたまたま非常によいところに恵まれており、すぐアクセスができ、貸切ができる。同じ環境はそうそうないだろう。そうなったとき、多くの時間をさいている音ゲーの時間はどこにいくことになるのか?
人間は環境に適応する力があるという。きっと、最初はやりたくて寂しいこともあろうが、代替の活動を見つけることができるだろう。もしくは未練が大きければ、家の環境を作ることもやぶさかではないだろう。
では、代替の活動とは何だろう?これまで首都圏にずっと住んでいたこともあるので、全く考えたことがなく、ちょっと考えてみる。
考えてみると、音ゲーはよくできている。自分のインプットが具体的な項目とあわせて数値やグラフの形で可視化され、集計するツールも育ってきている。何より、自身との戦いに邁進できるし、やろうと思えば他の人と競うこともできる。プロリーグも開催され、前途多難な面はあることだろうが、なんとか続いている。DDRに限った話になるかもしれないが、運動習慣をつけるのにもってこいである。そして、何よりこれを続けてきたことでたくさんの人とのご縁をいただくことができた(最近はひきこもっているが……)。
となると、要素としては
- アクセスや参入障壁が困難すぎないこと
- 回ごとの成果を実感できること
- 回を重ねるにあたって成長していけること
- 競うよりは自分との戦いができること
- 体を使うこと
- (可能ならば)パフォーマンスを測定、比較するツールがあること
- コミュニティが存在している・もしくは作っていける余地があること
だろうか。こう考えると、運動系のアクティビティならばなんでもよさそうである。泳ぐ・走るとか、そういうのでもいいのかもしれないが……しかし、当時もそういった選択肢がある中、それでも音ゲーに入っていった自分のいきさつってなんだったかな、と、昔を思い出すのであった。
読んでくださり、ありがとうございます。この喪失をのりこえると、だいぶ居住の候補は広がります。広がるのがいいかどうかはちょっとわからないのですが。
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