◆旅先と物思い

きのうから新潟にきている。気圧の谷に入ったらしく、滞在中はずっと雨だ。ときには雷のマークもついている。舐めた準備で来てしまったと後悔するもすでに遅い。
身内の用件を済ましたのが昨日だったのだけれど、あとは新潟市に移動して「スイミー」でおなじみレオ・レオニの原画展と海を見ること、そしてBeatamaniaの行脚以外は特に目的がない。旅行パンフレットをめくる用事もないし、読書もきりのいいところで終わっていたので、降り注ぐ雨をみながら物思いにふけった。
「果たしてわたしはこのままでよいのだろうか」とか「心の声(※アトリエで絵を描いていたとき、不意に謎の声が「何のためにお前は生きているのだ。心に縛られたものどもを表現せよ!」と一喝してきた事件)を聞いたのにあれからなにもしていない」とか「じぶんにとって誠実であることはあまりにも荷が重すぎるような気がする」とか、いろいろなことが浮かぶも、これらは全て根を同じくしており、要するに「わたしはこれからどう生きたらよいのだろう」ということに尽きる。とくに引っかかっているのがふたつめの「謎の声」で、それは低めの男の声だったのだけれど、おそらくわたしの脳内にいるがっちりとした中年男が、日常をのらりくらりと過ごすわたしにいらだって放ったことばであった。しかと受け止めて生きねばと思わされたのに、いまだに何もしていない。結局いままでの、疑問符の浮いたままの生をだらだらと貪ってしまっているのである。これには脳内に住まうわたしの分身たちも怒ったりやきもきしたり泣いたりといそがしい。「どう生きるか」という問いに対する答えはむずかしい。これでわたしが黙っているものだから、分身たちはよけいに怒り、やきもきし、号泣する。
3日間降り続ける雨が泥だらけの悩みを洗い流し、シンプルな答えをみせてくれたらよいのだが。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。ほんとうは表現をして、表現をして、表現をしきって死にたいのですが、お金、生活、世間体がどうもどうもと店ののれんをくぐって、先客の表現たちを押し付けてしまっているような、そういったことがわたしの脳内では起きています。いいお米でつくったお酒でよっぱらってもいい日なのかもしれません。

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