■240903

きのうは240902だった

そういうこともある。

消費の社会

無理のないやりくりを考えることに、なんだか疲れてしまうことがある。そういうとき、というか今は本を読む時間がちょっと増えてきており、本はおのずとお金のことを考えなくてすむので、きらくだ。

今はほしいものやりたいこと食べたいもの行きたいところ、とくにがまんしないで過ごしても破綻しないくらいの経済的地盤を作ることができている。できているのだが、それでもなお、疲れることがある。自分がほんとうに必要としているものをただしく認識していないのかもしれない。一時的な「食べたい」「やりたい」「ほしい」に翻弄されていることがあるのも事実で、向き合ってみたほうがいいことのひとつだ。

ほんとうに必要なものをただしく認識するというのは、書くのは簡単でもやるのは難しい。そもそもここでの「ほんとうさ」とはわたしの主観であり、それをわたしは、ちょっと気持ちの余裕のあるときに考えても「あったほうがいいな」と判断するもの・ことになる。日々の雑事に忙殺されているとこの「ほんとうさ」を追っていくことも難しいことがあり、そういうときに無駄な「食べる」「する」「買う」は起こりやすい……と思っている。

そのあたりを考えると、まず挙がるのがスマートフォンだ。その必要性が真実味をおびる瞬間はとても少ない。生きるための連絡と、うるさい場所でのノイキャン、語学学習に加え、音ゲーのリザルトと食べたものを撮るくらいがわたしにとっての「必要さ」だ。しかしその便利さに触れっぱなしで日々を過ごしている。ふれている時間をみたことはないけれど、ほとんど無駄な時間なんだろうと考えると恐ろしい。お金を使うことの前に、時間を使うことについて考えたほうがいいのかもしれない。

羽田圭介さんの『スクラップアンドビルド』はそういう、削ぎ落とす感覚が印象にのこる作品だった。他の作品でもそういう部分を扱っているみたいなので、やはりまた読みたいな。

書くこと

なんとなく習慣化しつつあるが、 結局まとまった時間で書き連ねたいこととはなんなのだろう。漠然としているので、しばらくこのままかも。とはいえ、なにがしかまとまったものを生産したいというきもちはあるので、ゆるゆると書いていく中で見つかるとよい。あつかいたい部分がなんなのかもう少し言葉にできるとよい。

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