成年後見の文脈から、認知症について学習しなおしたとき、介護によって人間関係が難しくなるのは、認知症患者の見えている世界を、介護者が否定し、「正しい認識」に修正しようとするといった、受け入れの難しさが大きいのだという話があった。認知症患者における脳の変性は不随意であり、進行性であり、患者本人もついていけない部分があることがおおいに予想される。その中で、なんとか見えている世界の話をはなから折られてしまうと、余計に意固地になってしまうということが起きるのだという。
ふと、以前読んだ『クララとお日さま』の中にあった「ジョジー自身ではなく、ジョジーを愛する人の中にありました。」というせりふを思い出す。これは、ジョジーという人間の女の子の同一性が何によって保持されるのか、といった文脈における問いに対してAIロボット・クララが返したことばである。本編の中ではお話の流れ上、ジョジーの生と死と、周りのひとびとの気持ちや行動の描写がたびたび出てくるのだが、このせりふがこの作品のクリティカルな部分のひとつだとわたしは感じていて、このことは、脳の変性による性格や気質の変化についても似たようなことがいえるのかなーと思うなどした。
人間は常に時間的な存在であり、その中で出会った人間との関係を構築していきながら、自己像をつくり、他人から見たその人像を作る。身体的な欠損や変性の場合、その人の性格や気質への影響はさほど大きくない場合もあり、視覚的に見えやすいのでサポートもしやすい傾向がある。一方で、認知症をはじめとして、精神疾患の多くは非常に見えづらいわりに、生活への影響がそこここに出てくる。自身もその変化についていくことが難しい中、周囲にいる人々もよく関わっていた頃のその人像を想起してしまうこと、その像にあわせて接してしまう場面が少なからずあるように思う。ここにあるすれ違いというか溝を、個人単位・家族や地域単位・もっと大きな単位でどのように埋めていくのか、具体的に考え、実践していくことが、精神疾患全般においていえる課題のように思った。
読んでくださり、ありがとうございます。長らく精神障害のフィールドにおり、ここ数年はだいぶカジュアルになっているところはありますが、なんだか表面的すぎていたり、いずれかの発信によりすぎていたり等、途上の感がございます。
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