縦の旅行、横の旅行という例えがある。これはカズオ・イシグロのインタビューが有名なのかな、富裕層というのは、自分と似た境遇の人間のいる、別の場所を旅する「縦の旅行」しかしないが、一方で分断する現代において必要なのは、自分の身近に存在しながらも、普段目を向けていない存在、全く境遇も文化的背景も異なる人々を知る「横の旅行」であるという話だ。個人と個人の相互理解なしに社会は育たず、それどころか、個々の快不快の感情が集束し、社会が動いていってしまうことになりかねない、というようなお話である。実際の国際情勢をみているとそういった向きはそこここに見られ、他人事で片付けることは難しい状況に足を踏み入れているのかなと思う。
さて、自分のフィールドでもある障害福祉はまさに、横の旅行そのものだなーと思う。自分に近い人も遠い人も一緒くたにクライアントとして対面し、そこに貴賤や上下はない。やりとりを交わしていきながら、その人を知っていきながら、現代の社会生活になじんでいけるようにするために、どうしていくといいのかを探していく。業務上、知ること自体は目的ではないものの、そこを皮切りに支援を進めていくことになるので欠かせないものであり、時にびっくりするような価値観や背景がこの世にはあって、この、支援プロセス自体が横の旅行なんだな~と感じた。
横の旅行においては、福祉の仕事のように、相手を変えることは一義的な目的でなく「知る」ことそのもののウェイトがかなりの割合を占める。その上で、自身の認識や社会に対する向き合い方を内省することを個々人がしていくことに意味があるのだろう。自分ひとりの知っている範疇などたかがしれている。
以前読んだ『民族という虚構』に、民族は自明の概念のようで実はそうではない、という話があった。歴史を紐解いてみれば近代の途上国の分裂にはたいがい欧米諸国がからんでいるし、そうでない国や種族であっても何かしらの目的があって一体になったり、分裂していたりする。今、当然のこととして受け入れている事柄の中に、実はそうではないものがあって、横の旅の中にもそういったことがらがそこここに存在していることを想定すると、なんだかちょっと似ている。気がした。
読んでくださり、ありがとうございます。ぼけっとしてると内に内にむいてしまうので、外へ外へ意識をむけて考えることをしたいです。
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