■地途切れて

『罪の重さは何で決まるのか』を読んでいるとき、被害者はこれまでの生と地続きで生きていくことはむずかしいという一文があった。最近ではないが、池袋の自動車事故で妻と娘を亡くした男性のことが頭をよぎった。愛する家族を失い、再発を防止するための運動をはじめる。金目当てや偽善者などといった誹りにも負けず、毅然として壇上に立ち、啓蒙を続けている姿には感服するばかりである。

ただ、その姿は事件があったからこそ作られてしまった姿であり、それまでは楽しく幸せな家庭生活があったと、事件当初は繰り返し報道されていたような記憶がある。

それでもなお、男性がこの先の人生を生きていくにあたって、そこに縋り続けるのではなく、この先、自分と同じような悲しみや喪失を味わうことのないように動いていこうとされるのには、並々ならぬ、生きる意思が感じ取れる。自ら望んだものでは決してない境遇のなか、とてつもなく強い生き直しだと感じた。

同じく大きな病に襲われた人というのも、これまでとは違う生を生きねばならない。がんなどの大病もあれば、精神の疾患などもみられるところかもしれない。病名を公表する芸能人の方々がおられるが、それは逆に、今でもそういった病気が敬遠されることと背中合わせの事実だと思う。病を患った後、完全に元の生活に戻ることはほとんど不可能だ。その無力感や不甲斐なさに打ちひしがれる人もおられる一方で、そうなったからにはなっただけの生き方を前向きに探っていく人もいる。

まごうことなく「強さ」が優遇されるこの社会において、病や罪、喪失は言うまでもなく「弱さ」として捉えられがちである。ただ、その「弱さ」は万人が持ちうる運命の中のひとつであり、それをいち早く体験し、その深淵を知ったからこそ、あえて強さの象徴である武器や鎧を脱ぎ捨て、生きていこうとする姿そのものは「弱さのうみだす、他の生き方・ありかた」ともいえるだろうか。いずれにせよ、不安や欺瞞の漂う社会の中でこれを深めていく必要性を、ずっと感じている。

読んでくださり、ありがとうございます。これはだいぶ長らく考えていて、どう表していくのかなかな悩ましく、今回のことが答えだ!という納得感もないのですが、引き続き深めていきたいトピックです。

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