◆記憶のあいまいさ

 最近、じぶんの記憶に自信がない。もしかしたら過去の経験は妄想だったんじゃあないだろうかとか、この過去は何かちょっと装飾しているのではないかとか、そんなことばかりを考えている。Googleカレンダーに入れた予定も、ほんとうにこの時間で正しいのかと疑ってしまう。じっさいカレンダーにしたがって行ってみれば、時間が間違っている。こういうエビデンスがあると、ますます自分を信用できなくなる。メモもしてGoogleカレンダーも使っているというのに、どこかで狂ってしまう。

 思うに、人間は自分にとって大切な情報から先に拾う。つごうのいいことばかりを、と言い換えることもできるかもしれない。同じ場所で同じ経験をしていても他人と認識のずれがあったり、ときに齟齬が起きたりすることは、ふしぎではない。

 少し前に、記憶を10分しか保つことのできない男が妻殺しの犯人を探す映画『メメント』をみた。彼は重要なこと、要するに、妻殺しにまつわるヒントを入れ墨にして彫っている。逆に(ネタバレになってしまうので伏せるが)つごうの悪い記憶はメモしていない。作中ではごく自然に、さらっと流しているので気づきづらいのだが、決定的なメモを忘れたまま彼は破滅していく。その過程が過去→現在、現在→過去のふたつの時間軸を使って描かれている。

 たとえ『メメント』の主人公のように健忘がなくとも、にんげんが記憶を拾う基準は同じなのではないか。つごうのわるいこと・ささやかだと感じたことは記憶の引き出しに入れない。わたしはこの主人公がいくつか散らばっている重要なシーンでメモをしない姿をみて、他人事に思えなかったのだ。

 今からこんなことを考えていると、さいごに自分の人生をふりかえったとき、思い出したものがほんとうに「ほんとう」なのか、ひどくあやしくなってしまうのではないか。今想起している人生は、わたしの記憶の断片がつくりだした創作なのではないかと、考えてしまうのではないか。あたかも経験したことのように話すが、実はそうではないのかもしれないと。あと一歩の証拠がない。写真があっても、メモをいくら書いても、そこに安心がともなわない。つねにひとの時間は過去になっていく。過去になっていくと現実としてつかめない。おわらない追いかけっこをくりかえしながら、何度めかの「今」がくる。

 今日も読んでくださり、ありがとうございます。記憶は考え出すとごちゃごちゃして混乱します。今や未来の話にくらべて過去の話がじょうずにできないのは、こういったカオスに由来しているのかもしれません。じぶんを信じていない。

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