世間は夏休みである。例にもれず、わたしもその恩恵をあずかっている。とくに今年は梅雨前線はどこへやら、史上初の六月の梅雨明けを経て、高気圧が手を抜かずにいて暑さが続くものだから、連休への恋慕は例年を上回っていた。それがようやく、である。
思えば、連休が来るまでの数日間はいつも高揚している。年末年始の民謡「お正月」でも、正月遊びを心待ちにする歌詞が盛り込まれているではないか。連休前に心躍るのは、どうやら今も昔も変わらないらしい。
連休に入ると考えてしまうことがひとつある。連休の終わる日のことだ。連休突入までの日々を指折り数えてときめいていたのが、連休に入ったとたん終了へのカウントダウンに変わる。始まったとたんに終わりのことを考えるなど貧乏くさいといえばそれまでだが、やはり連休は長く続けば続くほど望ましく感じてしまうようである。またこれは、連休を目的として捉えているときに起きがちである。幼い頃、欲しいものを求めているときが一番欲しい気持ちが大きく、いざ買ってもらうと気持ちが急降下してしまうことがしばしば起きた(というか、ほとんどがそうだった)。連休に関しても、何も予定のない連休ほどそうなりがちなのだ。手段として──旅行へ行く、ふだん会えない人に会いに行く、缶詰で原稿を進める等々──連休を使うとき、終わりの憂鬱感は何もない連休よりいくらかましである。ましになるだけで、消えるわけではない。労働者の切ない性である。職場は連休のさなか指折り数えてわたしたちが来る日を心待ちにしている。わたしは職場が嫌いなわけでも、つらいわけでもないが、どうしてもそういうものなのである。
こうして始まった今回の連休だが、なんと最終日の火曜日以外は何もないので、実家に帰ることにした。特段何かがあるわけではないけれど、普段旅行ばかりしているものだし「何もない」をたゆたうのもたまには悪くないだろう。
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