『ギリシャ語の時間』(ハン・ガン著、斎藤真理子訳)

24年のノーベル文学賞作家として名をはせたハン・ガン氏の著書。受賞作はまさかの読んでいない。すみません。ただ、この作品を読んで、テイスト的にはすきな感じがしたので、じゅんぐりまためぐりあえたらと思う。

さて、こちらの作品はタイトルの通り、古代ギリシャ語の講座に通う女性と、講師の男性を主軸としたお話である。現代ギリシャ語ではなく古代というのがひとつのポイントで、すでに使われていない、いわゆる「死んだ」言語といわれる。あたらしくなることも更新されることもない学びの世界の中で、刻一刻と進む時の中で生きるふたりの話が繰り広げられる。その二人についても、名前は出てこず、たんたんとお互いのことをさぐりあっていき、お話が進んでいく。

なかでも特徴的なのは、女性のほうは喋ることができず(昔はしゃべっていたエピソードがあり、人生の中途から喋ることができなくなる)、男性の方は徐々に視力を失っていくといった、かつて出来ていた・もっていたものを失っている、もしくはその最中にある状態である。不可逆的な変化(老いなどもそうかもしれない)や、周りとの特異性を抱えながら生きていく人間を軸にして、このお話は進んでいく。とはいえ、何かドラマティックな展開が起こるわけではなく、日常が流れていく。ただ、この二人が出会うことで、これまでみつめていたものの解像度が上がっていったり、ちょっとした行動の変容がうながされるときがある。作中の表現やディテールについて、徐々に顕微鏡の倍率を大きくしていくような、こまやかな描写がみられ、そこにおいて、人と人との距離感がほんの少し縮まった様相や、人物のまなざす先のものを読者に見せてくれる。

この小説にたいして、著者は「生きることに対する最も前向きな答え」と評している。字面だけをなぞっていくと、到底前向きであるとか、明るい小説だというふうにはいいがたい。ただ、読み進めていけばいくほど、自身の言葉を失った女性と、視界を失っていく男性との距離感や関係性が変容していく。硬直した古代ギリシャ語の世界、変えられることのない痛切な過去をもった二人が、現在の時間の軸で、変容していく。そこには生きる人間のひたむきさが対比のようにうつり、輝かしい。

本来、物語の主人公になるようなことのない、一般的な「ひとびと」のあり方というのは、こういうものなんじゃあないかと思わされる。また、主人公ふたりの「失いつつある」状況にありながら日々を生きる、そのこと自体が人の強さなのかもしれないとも感じる。自身のこれまでの半生を反芻しながら、日々をみつめて前に生きようとする。

このことは、物語を傍らでみている読者にも適用されるのかもしれない。必ず人は老いるし、人生の中途で失う、損なうことがある。そのうえで進んでいく日々を真摯にみつめていきながら、生きていく他ないのだ。その、強がりも飾りもしない「そのまま」の答えを、本作の人物たちは苦しみもがきながらも見出しているのかもしれない。

うまくことばになったかはわからないが、不可逆な時間の中で、かならず人は何かをえて、何かを失っていく。とくに失ったことに関して多く文字の割かれた本作において、それでも生きることそれ自体の光を見出せるというのは、実にふしぎな体験だった。弱視や失語といった障害の分野にも十分言及できる作品かなと思うが、そのあたりはまた時間のとれる機会に少しずつまとめられるとよい。

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