現代のインターネット、とりわけXをはじめとするSNSによる承認獲得ベースでもなく、だからといって共同体として回帰していくのでもないあらたな空間、著者いわく「庭」が、どんなものなのか考えていこう!という本。特段不幸でなくとも「とかくこの世は生きづらいな、毎日つらいな」という意識がこころの底で膿んでいる人は決して少なくはないのかなと思う。なにせ自分がそうである。ハードカバーで350ページ超えとそこそこのボリュームだが、おもしろくてワーっと読破してしまった。
著者の挙げるプラットフォーム資本主義に対する居心地の悪さは感覚的に共感でき、Xの過剰な広告や「おすすめ」欄が出てからの、見知らぬひとによる激しい政治論争やこき下ろしなどにはすっかり疲れたし、本意でもなく「いいね」きそうだなーという言い回しをしてしまうことなどは、Xをしていて一度や二度ではなかっただろう。一方、そういった社会を迂回して共同体に回帰していく向きについても、そこに溶け込めるほどわたしはコミュニケーションに長けていないし、入りにいきたいかといわれるとすなおにYesとも言えないし、というのが正直なところだ。英会話のコミュニティに一時期参加していたのだが、そこで会う人たちと何を話していいのかわからなくなってしまい、顔がわかってくればくるほどしんどくなってきてしまい、一旦地方移住にあこがれつつ踏み切れないのはこういった「共同体のなごり(多分そこにいる人たちは現役で共同体にいると思っているので、なごりとかいうのは失礼かもしれない)」の残った土地ではうまくやっていけないだろうなという気持ちが大きいことも由来している。
ところで、自分のいきつけの店はほどよく距離を保ってくれる店主がおおく、身内感や馴れ合いがないところがよく、だからこそ通えている。ドライな話にもみえるかもしれないが、お金を払っておいしい食べ物がスーッと出てきて、食べたらちょっと本を読んだり音楽を聞いたりして、自分だけの時間を過ごす。それだけでいい。それは「共同性」でなく「公共性」と呼び、本文では高円寺にある銭湯やランドリー喫茶が例示される。WGC(おそらく日本一精力的にゲームの保全をされているゲームセンター)などもだいぶ「庭」にちかい施設なんじゃないかな。経営の仕方や人の巻き込み方がフラットなのでよく追っている。
その後、こういった孤独な時間を過ごすことの重要性も著者は説いており、これを「夕方」という呼び方をしていた。手垢のついた言葉だとアフター5とかがそれに近いんだろうか。
そのようにして、この「庭」というものが一体どういう条件をもっていたらよいのか、というのを前半ではめいっぱい探求する。条件が出揃ったところで、きゅうに「庭」の話が終わるのがこの本のおもしろいところだ。15セクションくらいあるのだが、11セクションくらいで終わる。そのあとでどんな話が繰り広げられるのかというと、そういった庭でどういったことをするのが人間を既存のプラットフォームや評価から脱却させるのか、ということだ。一冊の本の中でさらなる深化をしていこうとするのは挑戦的ですごい。
人間の活動やその条件については、坂口安吾の、戦争と一人の女やハンナ・アーレントの人間の条件を引きながら、深めていく。一読して完全な理解には及ばないが、承認や評価から脱却し、世界とじかにふれあい、変化していく手応えのある「制作」に、光を見出す。その入り口の実例が「この世にないプラモデルを自作するガンプラオタク」や「有名スポーツ漫画のキャラクターをもとにしたBL漫画をつくるファン」なのもまた面白い。最終的に「制作」は、現代社会の情報技術の進歩によって経済的リスクを低減した(たとえば副業ができる、なども含まれるようだ)「弱い自立」によって解放された労働から始まるのでは、ということで本書は筆を置く。
自身にとっての「制作」が何にあたるのか、今はイメージできていない。ただ、この「弱い自立」をなすことによって「夕方」の時間を過ごしやすい心的なスペースをとれる気がするし、そういったスペースがあってこそ「制作」へのインスピレーションが落ちてくることもあるだろう。心的なスペースをもたない、忙殺された人間が何か新しいものを生み出せるのは、まさにその「忙殺」から何かを生み出しているとき以外にはありえないんじゃあないかと思う。いわゆる”Work as Life”の人はこれでいいのだと思う。しかし、「少なくとも今の業界で自分はそれではなかな……」と年々働くごとに疑念は確信に近づいてあいっている。これを考えるとやはり、もう少し時間がほしい……。
あとこちらは、本の内容ではないのだが、10年くらい前かな、技術革新がすすみ、既存の労働をAIが代替するようになると、人の可処分時間が増え、労働は「遊び」によるクリエイティビティが飛躍的にすすんでいくんじゃないか、ということをホリエモンが書いていた。最近の対談でも同じような話をしており、確かにその頃と比べると、人間がしなければならない労働の時間は本質的には減って、副業OKのところも増え、というふうに、だいぶ変わってきている。「庭」で「制作」するにあたって、この「遊び」の心はいい具合にはたらくんじゃあないかなーと感じられた。ただ、そういわれていつつも資本のあるひとたちはそういうふうにしていけて、そうじゃない層はそのままで、という感じがしなくもないので、そのまま適用するのには難しさがあるかなと思う(だいいちホリエモンさんは資本主義の話でいけば確実に勝者の側だからね)。
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