◆読む醍醐味

年末にいただいたモレスキンのノートが読書記録用になった、というのは去年書いたかな。「しごとが始まったら年末年始ほど時間もないし長くはつづかないだろう。」とたかをくくっていたのだけれど、これがまいにち続いている。こんなにわたしは本読みをたのしんでいたのか、読みながら思うことがあったのか、ことばがぜんぜんわからない!勉強不足だな、ばかだなァ……等々。あたまのなかで思っておわるのと、じっさい書いてみるのは大きくちがう。形がのこって忘れづらい。忘れっぽいわたしに「書く」のはうってつけかもしれない。

読書記録を書きはじめてから、以前よりことばをじっくり読むようになった。べつに読む数を競っているわけではないのだけれど、こうも変わるのかと驚く。と同時に、いままで行っていた読書は果たしてほんとうに読書だったのだろうか……?と首をもたげた。ことばたちは目の表面を滑り、頁をめくるころには飛散していた。手元に残るのはおおまかな筋だけ、いざ感想を話そうとしても細部の記憶はぼんやりとしている。これでは「まとめサイト」で本のネタバレを見るのと大差ないのではなかろうか。豪勢な食事が出ても無言で貪り食ってしまうような無礼を、ずっとはたらいていたのかもしれない。「何食べたか覚えてないけど、おいしかった気がする。」などと言って。

ここで読み方の軌道修正ができそうなことは読むわたしのみならず、書くわたしにとっても幸運だった。谷崎潤一郎の『文章讀本』という文章の手引書によれば、書くことの意義は「くりかえし読んでもらうこと・ひとびとの記憶に長くのこること」だという。今でも語り継がれる名作や忘れられない1冊、なぜか何度も読み返してしまう作品には、かならずことばの内にヒントがかくされている。ことばをじっくりと吟味する醍醐味を知って、さらに活字の世界が豊かになっていきそうな予感がする。そうしてゆくゆくは自分の編み出すことばに活かしていければ……そんな妄想が頭をよぎり、今日もつたないエッセイがインターネットの片隅に誕生するのであった。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。なぜかのどがいたいです、不穏な金曜日。

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