ピアノ協奏曲第1番”蠍火”のようなタイトルになってしまったが、内容は全然かっこよくない。

半年くらい前から、小説の赤入れをしてもらっている。要するに添削のことで、自分では気づかないいいところも、悪いところも、どんどん出てくる。元来指摘に弱いたちなので喰らった瞬間はずしっとくるが、3秒後には噛み締めて、感謝の心があふれだす。内容への評価以前に、遥かに経験豊富な相手がわたしの拙い文章に時間を使って、改善につとめてくださっている……その事実がありがたいのだ。

そもそもだめなところを見つけてもらうために赤入れをお願いしているのだから「ここがいい。ここもよくて、このままいきましょう。」では、意味がない。「ここの言葉遣いが不自然」「物語として成立していない」「動機が不明瞭」そういったことが書かれて戻ってくると「ありがとうございます!」と言いたくなる。作品をどこかに公開している以上、第三者が読んで意味のわかる文章をつくるのが物書きのつとめだ。ひとが何かを書くときというのは、書きたいことがあって書いていることがほとんどであろうし、読者に伝わらない文章を公開しつづけるうまみもない。

音楽ゲームも、これと似た構造をしている。プレイする曲のゲージが全然伸びない。押せない。途中で死ぬ。結果画面で「BAD」「POOR」「FAILED…」、これはすべて「お前押せてないよ」「リズムずれてるよ」という「ヘタクソ宣言」だ。最高段位である皆伝を取っても、その曲の前では「ただのヘタクソ」なのだ。 この、できないところを次々に押し付けられるのが、たまらない。クリアできていないのに、妙な高揚感に襲われる。「オメエ、強ぇなあ……オラ、ワクワクしてきたぞ!」と、このときのわたしは、まるで悟空だ。ひとつ違うところがあるとすれば、悟空はサイヤ人なので修行すればだいたい三話後には勝てるけれど、わたしはただの地球人なので、二回目でできるようになることはほぼない。

「ヘタクソ」は、成長するために必要な栄養素だ。文章に関しては「ヘタクソ」と言われるわけではないけれど、できていない、わかりづらい部分に自覚的になったとき、突破口が見いだせる。その過程が楽しくて、赤入れをお願いし続けている。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。趣味についてはとことんマゾ気質なのだとおもいます。これからもよろしくお願いします。