会話はインプットとアウトプットの繰り返しである。それもリアルタイムで行われる、たいへん慌ただしい行為だ。双方ともうまくやっている人が、いわゆる話上手であると考えている。私はどちらもあまり上手にできない。リアルタイムで行われるということが苦手要素の一因と考えていたが、どうやらそれだけではなさそうだ、というのが今回の話である。
前回は、今まで相手の言葉に神経を研ぎ澄ますという経験が乏しかったことに気づいた。これにより聞く━インプット側の問題はある程度突破口が見えたように感じる。ではアウトプットはどうだろう。
落語は、オチのついたストーリーを一人の噺家が登場人物になりきって語る伝統芸能である。シナリオは過去の噺家が創作したものを噺家のカラーを出しながらアレンジしたものや、噺家のキャラクターを活かした創作もある(春風亭昇太師匠の独り身ネタなどは、実は10年以上前からあったりする)。とはいえ、会話においてオチは必ずしも必要ではない。不自然なオチ作りは却って相手を敬遠させてしまう(要はすべる、ということだ)。むしろ落語をすすめる噺家の話しぶりこそが、話下手にとっていい薬になるような気がしている。
私は耳だけを使う趣味として落語を採用しているので、話し中の身振り手振りは見えない。それでも彼等の口調や間を「研ぎ澄まして」聞いてみると、体の動きが見えなくとも想像できてくる。特に間は見事なものだ。先が気になって仕方ないという時、登場人物Aが話し終えるか否かといったところで登場人物Bの急かす声が聞こえてくる。さらに、このときの言葉の抑揚にはそのときどきに適した感情が籠もっている。話下手に足りない要素の一つとして、間合いのとり方や抑揚の乏しさがあるように感じる。
そしてこの技術たちはおそらく、単に語り方の練習をすればいいというものではない。一にも二にも、相手を観察するということが求められている。この観察眼を養うことで、適切な間合いや言葉を編み出せるように感ぜられる。
落語にまつわる、こんな記事がある。
六代目圓楽師匠のインタビューである。落語のことだけでなく、現代社会の特色も踏まえながら落語の醍醐味を語るという、社会派な一面を持ち合わせる圓楽師匠らしい頁である。末尾にこんな言葉がある。
噺家というのは本来、自由人です。そして優れた観察者だと思います。ふつうの人が気づかないようなところに気づいて、そこから想像を逞しくして、面白い噺を膨らませていく。そうやって、ふだんとはちょっと違う世界観を広げてあげて、そこに聴衆を取り込んでいく、そういう芸能なんです。
話の要旨は異なるが、この「観察者」というキーワードは普段の会話でも活きそうだ。観察と想像力、これが話下手への処方薬である。願わくばこれがてきめんに効かんことをいのる。
コメント
[…] 怠惰な学生生活のことはさておき、これが今の仕事に役立っていることは言うまでもない。さらに自分の「できない」に対してもこのアプローチをすることで、結構生きるのが楽になった気がする。 自分の「やりたいけど、現状できていない」ことを書き出して、どこにあてはまるのかを考えることがある。たとえば「毎日文章を書きたい」「文章がうまくなりたい」は③だ。両者とも「四の五の言わずにまずは書け」ということに尽きる。そのあと赤入れをしてもらって「知らない」表現を教えてもらうとか、「実は第三者から見るとわかりづらい」表現を指摘してもらうことで段階的に①の要素を含んでいることもわかる(前々回、前回に書いた話下手も①と③の複合ケースである)。また「お酒が飲めるようになってきたので、おつまみを作れるようになりたい」は①だ。今まで宅飲みと無縁の生活だったので、レシピサイトを見ることからスタートだ。自炊していることもあるので、たぶん「できる」に変換できそうな気がする。 […]