◆靴下の行方

参加している文芸同人で、竹雀氏がこんなエッセイを書いている。
靴下の順番
今日はその後半にある

はたと気づく。行動というものは、いや、行動の順番というものは、どうしようもないほどに人そのものなのだと。

という一節を受けて作ったアンサーソングのようなものである。彼のエッセイは毎回目のつけどころがユニークで、かつ得意分野の漢詩や文学を織り交ぜて語られる独特の展開がくせになる。それでいて読みやすいので、普段文章を読まない方もぜひ興味があれば読んでみていただきたい(宣伝)。男性特有の文化の話もあるので、共感できる方がいらっしゃるやもしれない。

同居人の靴下が、片方だけなくなってしまうことがある。自分は靴下を脱いだら洗濯機に入れるところまで見届けるので、左右どちらかが欠けるということはない。干し終わってから相棒がいないことに気づき、洗濯機を覗き込むと空である。洗濯機の中身を全部出したあとに今一度覗き込んで確認するのだから、あるはずがない。迷子の靴下はだいたいあとになって、洗濯機の下から出てくる。たいがい見つかるタイミングが入浴時なので、それを洗濯するのは翌日になってしまう。洗濯を取り込むとき、無事洗濯機に放られたもう片方の靴下だけが切なそうに乾いており、置き場に困って端に避けておく。
靴下の主は気にするそぶりもなく、飄々としている。「たいがいあとで見つかるから。」と呑気に構えているのかもしれないし「なくなってもまだストックがあるから大丈夫。」と余裕綽々なのかもしれないが、いずれにしてもその神経は理解できない。だからといってその態度を責めるつもりはないし、血眼になって迷子を探すようなこともしないし、その神経を理解しようとも努めない。どれも必要のないことだからだ。

誰かといる暮らしをうまく回していくのに、必要以上の歩み寄りや否定はお互いにとって悪影響である。お互いがお互いにとって「宇宙のひと」だからだ。わたしが同居人を理解できない部分があるように、同居人にもわたしの不可解な部分がある。それはたかだか数年暮らした程度で修正しえない、根の深い習慣である。生まれた家の風土も育った環境も異なるのだから「同じ人間だからわかりあえる」などという綺麗ごとは捨てて(というか、そういう思想を持つこと自体が、わたしにとっては不可解そのものであるのだが)、別の星からやってきた人間として相対するほうが自然だ。今まで当然だと思ってしてきたことにあれこれ言われるのは、あまり気分のいいものではない。よほど反社会的であったり人に迷惑をかけているのならば別だが、今のところ深刻な事態は起きていないので、お互いの星の暮らしを尊重できるようにしている。

「キャッシュカードをどこに置いたのか忘れちゃった。いつものところにない。」
休みの朝に悠長な声で言うと、同居人は呆れ果てたようすで返す。
「また?」
何を隠そう、もう何度目かわからないくらいキャッシュカードは家の中で行方不明になっているのだ。わたしはお金関連のものをなぜか頻繁に紛失してしまう。実家のときからそうだった。
「どこに置いたんだろう。困ったな。」
「ぜんぜん焦ってるように見えないよ。」
心底慌てているというのに、このときのわたしの顔は「今日もいい天気だね。」と言うのと同じだという。なにかを失くしたときに限らず、表情と言葉と心情が全く一致しないことがままある。同居人以外にも指摘されているが、こればかりはどうしようもないのだ。

結局、全く身に覚えのないところにキャッシュカードは鎮座していた。いたく安堵して「よかった。」と腑抜けた声を漏らすと、同居人は苦笑する。

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