SNSにはだいたい(といいつつFacebookとTwitterしかやっていないのだけれど)「いいね」ボタンがある。「いいね」は、手軽にポジティブな感情を伝えることができる。現代語の「かわいい」と同じように、SNSにおける「いいね」も好き・素敵・行ってみたい・面白い・あとで読む・斬新だ・メモ等、非常に多義的だ。もちろんわたしは「いいね」を使っているし「いいね」をもらうこともある。


しかし、ある一定のレイヤーにおける「いいね」がどうも受け入れがたいときがある。それは「いいね」だけで抱いたインプレッションを表現できなさそうなときだ。たとえば自分の知らない分野の論考があったとして、それを「あとで読もう」と思ったときはあえて「あとで読みます」とは書かない。自分の「いいね」欄には「あとで読む」意味を含めているからだ。それが「いいね」だけでは足りない、要はもっとことばを尽くしたいとき、わたしは「いいね」を敬遠する。
「いいね」だけでは、ファーストインプレッションしか伝えられない。そこから奥にあることばは、自分の頭の中から引き抜かないとならない。SNSでなくてもそうだが、深く沁み入るようなものごとに対しては「いいね」以上のことばを尽くしたい。ことばを尽くすことは、自らのもつ時間や脳のリソース、そして心を尽くすことと重なる。
同時にあらゆることを「いいね」で済ませてしまうことへの恐怖もある。あまりにも便利すぎることばは、そのうち人から考える力を奪ってしまいそうだ。「やばい」や「かわいい」、むろん「いいね」もここに含まれてよいと思うが、広い意味を持った言葉であればあるほど、自分の抱いた感情や価値観がどのように「やばい」「かわいい」「いいね」という形容とつながっているのか、知っておきたい。そうでないとやがてことばだけが先走って、自分の脳内が空疎な「やばい」「かわいい」「いいね」で氾濫してしまう日がきてしまう気がする。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。ひとに対して、ことばに対して重たい人間なのだと思いますけれど、そういう質なのですからしかたがないですね。