◆ひとの多面性

 先月の話になってしまうが、25日、映画『テッド・バンディ』を見た。連続殺人鬼をあらわす「シリアルキラー」の語源になった男で、甘いマスクと明晰な頭脳が多くの女性を惹きつけたというのは、有名な話だ。長年の恋人であったエリザベスの証言を元に、恋人の目線からテッドを追った一作である。
 わたしは注意力散漫なので映画のようにじっと座って2時間こらえるというのがとても苦手なのだが、新しく処方された薬のおかげで2時間通して集中することができた。まずは内容以前に、そのことに感動した。一度も別のことを考えないまま映画が終わることなど、これまでになかったのだ。

 映画の話に戻ろう。正直、映画を見ていたく安心した。「恋人の視点」という独自性の高いフィルターを通したテッドは、ひとりの人間をひたすらに愛するただの市民だった。テッド・バンディという、恐ろしい殺人鬼のイメージをひっくり返すようなエピソードが、本編には幾度となく出てくる。彼は殺しの顔だけを持っていたわけではない。善良に見える人間が殺しをする。殺すのも殺されるのも、おなじ人間である。被害者の方がわたしのような意見を聞けば憤るかもしれないが、わたしは何よりもそのことに一番、ほっとした。

 さまざまな社会集団の中で生きるわたしたちは、複数の顔をもって生きている。授業参観で親が学校に来ると聞いて複雑な気持ちになったり、バイト先に学校の友達が来たときにどうふるまっていいのかわからなくなったりと、なにげなく生活していてもそういったことは起こる。
 事件の聞き込みでよく耳にする「真面目なあの人が殺人なんて、信じられません」や「学校ではおとなしい子でした」というのは、何の意味もないと思う。真面目な彼(もしくは彼女)と殺しをやった彼(彼女)は全く別の顔で、ある一面を切り取ってその人のことを語ろうとするから、おかしなことになる。ひとは本来ひとつの社会集団だけで生きていない(ことが多いと思われる)ので、いろいろな顔がある方が自然なのだ。テッドに至ってもそうだったのかもしれない……と。

 だいぶスケールが小さくなるが、このことは自分に照らしてもおなじことがいえる。以前、友人とポケモンGOをやっているのを職場の人に見られたことがあり、週明けに「きのう御影さんを見たけど、すごく楽しそうだったね。」と言われたのがどこか気恥ずかしかった。わたしはオンとオフの自分をきっちり分けているので、服も化粧もちがっていれば力を入れる筋肉もちがうし、しゃべりかたも全く異なる。おもえば会う友人によって口調もちがっていて、無意識のうちに細かく演じ分けている。我ながら細かすぎるのではないかと思うときはあるけれど、深堀りしていくといやになってくるのでしない。たぶん生育歴の中でなにかある。

 ときに、このギャップが人を惹きつけることもあるだろう。テッドが大量殺人鬼であるにもかかわらず牢獄に大量のファンレターが届いたり、裁判の傍聴者がほぼ女性だったことは、猟奇的な殺人犯とは到底思えない容貌や振る舞いに端を発しているのではないだろうか。逆に、恋人として多くの時間を過ごしたエリザベスにとって、テッド=殺人鬼という著しく乖離したイメージが世に蔓延していくのに耐えられなかったというのも、わからないではない。単純に「愛は人を狂わせる」というのではなく「どの面からその人を見るか」で見え方が変わってしまうおそろしさも、作品からひしひしと伝わってきた。
 これはわたしたちの日常にも往々にして起きているはずだ。きっと、思いを巡らせてみればひとり、ふたりと、思い当たるところがあるように思う。ひとは多面性があるからこそドラマが生まれる。テッドもその、最たるもののうちのひとりにすぎなかった。そういう話ではないだろうか。

 読んでくださり、ありがとうございます。凶悪犯罪者の経歴を読むのがけっこうすきなのですが、その理由も「凶悪な某」を形作るまでの物語や、凶悪さとかけ離れた日常の様子を読むことで「このひとも人間なのだな」と知ることができるからかと思います。逆にまったくそういったところがなく「生まれたときからそういうひとでした」という人の方が、恐ろしさがあるのかもしれません。理解の余地がすくないというか、そういうかんじです。

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