わたしは個人店、それも99%カレー屋に行くのだが、最近はお店の人と話をすることがふえた。きっかけはなんだか「おもしろそう」だったから。じぶんの人生経験からして、お店をひらいている時点ですでに「すごく、かっこいい」し、どうしてそうしたのか「知りたい」。そういう切り口で話をはじめるていたのだが、いろいろな話をしているうちに別のことも見えてきた。
前にじぶんの肉体を忌み嫌っているというエッセイを書いたが、「食べる」という行為はからだを捨てて行うことができない。手に取り口に放り込み噛みしだき飲み込む。からだなしにして語れない。いくら肉体を疎もうとも、生きるためにはしかたがない。半分あきらめながらも自分なりに有意義に使おうとしているのかもしれない。これがひとつ。
もうひとつも前にふれたことだが、オンラインの話よりもおくゆきがある(気がする)ということ。レビューサイトではそのものの評価しか書かれないが、人から直接話を聞くときはそれに付随する経緯やエピソードがついてくる。この、ひとつのものをめぐる、ひとの「ものがたり」を聞くのがすきだ。乱暴な言い方をしてまえば、レビューサイトは「点」である。一方人から聞く「ものがたり」は「線」だ。最近では、映画に対しても似たような感覚をおぼえはじめている。苦手意識があっても観ようと思うようになってきたのは、これがかなり大きい。
本だけが「ものがたり」ではない。人との会話も映画も絵をみることも、すべてが「読む」という一本の線に収斂されていたのだ。これまでは「本を読まなければ『読んだ』ことにならない……」となかば義務的に考えていたが、今は「広い意味で『読む』のであれば外食だって映画だって展示を見たっていい」と思えるようになった。読書以外の趣味をやるのに罪悪感もなくなったうえに、それぞれの活動の充実度も高まり、いいことづくめである。
よもや外食が「ものがたり」になるとは、店主たちと話をしていなければ一生気がつかなかったことと思う。深く感謝を申し上げるとともに、もっとカレーがすきになった。もっと通います。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。会話に映画と、音声のやりとりがぐっと増えてきたのでメモが増えました。音の記憶をほんとうにすぐ忘れますから、ノートを大きくしてよかったです。これも天のあたえたタイミングなのかもしれません。こう、いいことがあると神やら天やら出しがちなのですが、どうも自分だけでやったことのように感じないのですね。
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