◆質的リコメンドの尊さ

不慣れなところに出かけることになり、若かりし頃、そこに住んでいたひとにおすすめの食事を聞いた。返ってきた文面には、Google検索のリンクが貼ってあった。

その場にそうとうゆかりのある人なので、いくぶんは土着の知識や思い出が戻ってくると思っていたので驚く。と同時に、万人がたどり着けるであろうデータの集積がぽんと返ってきたことがさびしくもあった。

ふと、ひとにものを尋ねるということが、以前より意味のあることになっているのかもしれない……と思う。

「店主さんは朴訥としているけれどさかなのことにはくわしっくて、話してみるととても丁寧なんだ。」「あそこは道はもともと川でね、埋め立てているから今でもいびつな箇所があるの。子供の時落っこちて、たいへんだったわぁ。」という(これは思いつきで書いているので該当する店や道はない)ストーリーを聞きたかった。いまどき、おいしい食事処をガイドしてもらうのにそんな情報は不要だ、というのはわかる。げんに自分で調べるときは、そういうときだ。

去年長崎に旅行することになったとき、店や観光名所のことをたいへん丁寧に紹介していただいた。たんに「おいしい」「きれい」ではなく、「この通りはこういった情緒があって、慣れ親しんだ思い出深いところです」というような(原文がないのでうろ覚えだ)、個別的な経験を書かれているのがとてもうれしかったし、彼女のバックグラウンドを垣間見られたような気がした。旅行後のおみやげ話を通して、さらに長崎への思いを聞いて、より仲良くなれたような気がする。

むろん、情報の根っこにあるのは個々人の行動だ。しかし、検索エンジン等が情報を集積する過程で「そのひと」のものがたりは削られていく。そのクールさが頼もしくもあり、さびしい。同質同量の結果を無差別に返すインターネットが幅をきかせている、わたしにとっては「ほかでもないあなたに尋ねることの意味が大きくなっていく」なかで、Google検索結果を貼ってきた母にちょっとしたさびしさを抱いた。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。もしこれが加速していって、ひとびとが質的な情報を語ることのできなくなる病気なんかが出てきたら、ちょっとSFっぽいですね。

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