体重が47kg台になりました。念願の素数、去年のはじまりの体重にようやく戻ってくれました。
わーい。
前も書いたかもしれないけど、40台だと43がいちばんすきな数字で、だけどそこまで減らすとちょっとガリガリになっちゃうので悩みます。ちなみに大体1ヶ月で減ってくれたようです。年末まで4ヶ月あるので、順調におとせば43になりますね。さすがにゆるすぎる減量なのでそこまでは落ちないと思いますけど。
と、めでたい話はその事実だけで「おめでとう!」「よかったね!」って言ってもらえます。
では、逆にめでたくない話はどうでしょう。
わたしが今の体重の二倍になって誰かと会ったら(会わなくても、Twitterで「94kgになった」ってつぶやいたとしたら)「何があったの?」「どうしたの?」って言われると思います。
思えば学校の成績はそうでした。いい成績のときに「どうやったの?」とは聞かれません。悪いときはどうやったの?どころか「何やってたの?」って聞かれます。勉強してたとしたら結構傷つく一言ですね。まぁ、わたしは成績の悪い時はだいたいゲームしてたので、ゲームしてたって言って怒られてました。嘘ついて原因が究明されないよりいいんじゃないかなって思いますけど、親の気持ちとしてはどうやらそういうことではないようです。
ともかく、めでたくない話というのは、めでたい話にくらべて、理由を知りたいことが多いような気がします。
理由を把握することで、再発を防止したいのかもしれません。そう考えると、罪を犯したときの容疑者の「なんでもよかった」「誰でもよかった」というような供述は、通常犯罪をしない人々にとってはつかみどころがなくてすごくこわいのかもしれません。
ですが、そうしたらめでたい話にも理由を求めた方が、幸せになれる可能性は高いような気がしてきます。めでたい事件を再発させるという発想です。幸せの絶頂にいる人に理由を求めるのはやぼかもしれませんけど。「アタシ、来月結婚するの~」「よかったじゃん。でも何で~?」とかいうシーンを想像すると、人によっては呼ばれるはずだった結婚式に呼ばれなくなりそうです。どうしてそう感じるのかというと、めでたい事件にはある一定の物語がわれわれの頭に埋め込まれている、と考えるからです。
「アタシ、来月結婚するの~」→恋愛結婚が圧倒的多数を占める今、恋愛が成就して結婚する運びとなったのだろう(という経験知)→「わ~おめでとう~」
ざっくりしたサンプルですが上記のようなことが起こってるのではなかろうかと思っています。実際この経験知が毎回真とは限らないけれど、理由を求める過程が割愛されることが多いような気がします。それでも理由を求めた方がよいのかどうか?人によって答えは変わってくるでしょう。わたしは聞いちゃうことのほうが多い気がします。だって幸せになりたくないですか?幸せの定義は各々ですけれど、自分の想像する幸せに近い人がいたらどんなふうか知りたくなります。
ところで、一回着たワンピースが驚くほど色落ちしたので原因をしりたい。というところで思ったのだけれど、めでたくない話の根拠は間接的にめでたい話を導くよすがになる場合がありますね、服の色落ちとかそうですね。そうするとめでたいもめでたくないも背中合わせなのかもしれませんね。なんにせよ失った色がかなしすぎてここにきて正気を失っています。
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