■もどる、持たざる子の頃

しごとの流れを変えていくリスク管理として、ちょっとお金を貯めようと思い立った(遅)。ちょうど、今年の秋は展示の予定もすくなく、旅行も延期することにしたので、残ることといえば読書と音楽ゲームくらいで、だいぶ時間のゆとりができた。

今後の新しいしごとの道筋を作るために研修をうけたり、気持ちの余裕をもてているときは有志の勉強会に参加したりといった準備を進めつつ、全部それにあてても参ってしまうので、ひさしぶりにSwitchを起動し、売上貢献感覚で買っては積みをくりかえしていたゲームのうちの一本を選ぶ。

おもしれ〜!!!!だからいっぱいやってたよね。うんうん、忘れていた。

気持ちが10,20年前に戻っていた。完全に。当時は自分の意思で旅することはほとんどなく、かえって読書の空想やゲームのファンタジーがそれに近かったのかもしれない。手にとってみれば今でもおもしろく、この感覚を失っていなくてよかったと中年の自分が安堵する。

思えば、小さな頃の時間のほとんどがここにあった気がする。働きはじめてから、特に今のしごとになってから、ぜんぜん据え置きゲームをする余裕がなくなった。前職の頃はポケモンの新作も最後までいけていたはずである(現在、ポケモンSVは1周目クリアもまだだ)。もしくは、あいていたとしても、据え置きのゲームをする選択肢を選ばなくなってしまったように思う。なぜかと少し考えてみれば、現実の物語で自分のメモリがぱんぱんになってしまっているから、というのがひとつある。読書はかろうじてさしこんでいるが、ゲームから入ってくる情報量はインプットできる感覚の数からしても、本の比ではない。

ゆえになんだか距離ができてしまったのかな。寂しい。ひとときでも現実のあれこれを忘れて、幼い頃にもどっていけるだけのメモリがほしい。だからこそ余裕がほしいのである(いつもの「しごとへらしたい」のトピックに収斂していく)。

読んでくださり、ありがとうございます。ほんとうにすきなものは手を離してはいけないなと思いました。

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