12月のなかばに愛媛県松江市に旅行をして、わりとテンプレート的な観光を楽しんだと思っているのだが、中でももちかえりができた風習が足湯であった。道後温泉に足湯に併設されたカフェ(逆かも)があり、一息つきながら足をあたためるという経験をした。
12月なので当然寒く、足を湯に浸したときに足先の感覚がないことに気づいた。普段寒さの感覚があまりなく、職場でも「寒くないの?」と死ぬほど聞かれる。寒くないのですよ。今回の足湯は、浸かった足と、空気中にある足首から上との温度差もあり、普段寒さがわからなくとも「こんなに冷えているんだ〜」と痛感できた。
そういえば、整体にいったときにも「からだが冷えている」と再三ご指摘をいただき、その他の理由も重なり、湯船への入浴を推奨されるのだが、いやいやひとり暮らしの帰宅後にお湯につかる準備はだるすぎる。そもそも、許されるなら入浴しないで俺は寝たいぜ?と、答えそうになるのをおさえての、「そうですよね〜。わかりました。」といいながら、全くやっていない。ただ、既に20代を終えて久しく、自身の健康はたからものだな〜といったことをふつふつ思ってはいる。この状況を「よくないな〜」と思いながら、帰宅後、懲りずに整体で同じようなダイアローグが発生したところで、「ああ、家で足湯をやってもいいのかもしれない」と思い立ったわけである。
いつだったか、外で銭湯に入って食事をした後に帰宅し、ほかほかしていたからだの状態が抜けているのに気づき、試しにやってみたところ、お湯を貯める時間も短く、掃除も水位の低い分楽ちんである。水が抜けるまでの時間を待つのが洗面所でも風呂場でもなんだか苦手で、ようするに待てないということなのだが、足湯くらいの量であれば歯みがきをしていれば枯れている。この、「事後処理の面倒くささ」は、今のしごとになってから料理の頻度が激減したことともつながるのだが、そのせいで膨らんだ外食費を見かね、レンジアップだけで食べられるスープの類やパックご飯、納豆や豆腐といった、包丁やまな板を用いない自炊(といっていいのか)を組み合わせてだいぶ節約と、食事を選択する煩雑さの削減をはかることができた。それと同じく、足湯は浴槽に浸かることによって発生する面倒くささを適切にダウンサイジングしてくれたような感覚があった。
かつ、温まったときの安心感とでもいうのか、温かいということは本能的の人間の命の安全につながっているんだなーという感覚があった。厳しい寒さのある、雪深い地域から人がいなくなっている現状というのは、理にかなっているのかもしれないなーと思った。それでも毎日は面倒なので、またときどき取り入れていけるくらいが今はいいのかな。
読んでくださり、ありがとうございます。入浴はアウトソーシングできないわりにやることが多く、大変面倒くさいです。


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