◆○○いねむり

ねむりということばは、どこか神秘的な雰囲気をただよわせている。それは眠っているときの意識が鮮明ではなかったり、非現実のさいたるものである夢の存在があったりと、日中活動の場面では経験できないことがらがたくさん眠っていることからきている。
形容詞をくっつけることで、その奥行きは増す。浅い・深い・ぬるい・長いと、どれを頭に置いてみても浮遊感のある物語が書けそうな予感がする。ねむりの静的ないとなみに対し、わくわくするような気持ちを与えてくれる。
ねむりといって連想するのが、夜と死だ。昔からこのふたつは、ねむりと切り離せないものとして描かれてきた。昔は今と違って、夜は暗闇そのものだった。街灯もないほんとうの闇だ。神話の時代までさかのぼると、古代ギリシャにおいては夜の女神ニュクスは死の概念とほぼ同義である神々モロス、ケール、タナトスを、その後でねむりの神ヒュプノスと夢の神オネイロスを生んだ。そしてねむりの神ヒュプノスが人間に与える最後のねむりが死なのだという。ねむりは生きものが行う動作のひとつだというのに、その正反対にあるものごとが口を開けてこちらを見つめているような、奇妙な感覚をおぼえる。
日中にいきいきできないことの多いわたしは、ねむりという概念がすきだ。静寂と安穏がねむりの中にはあって、このまま起きなくてもいいなぁといったような、死の光すら感じることがある。それだからこのエッセイのカテゴリタイトルは「ねむっておきる」ではなくて「おきてねむる」だ。単に寝て起きて朝書いてます、ということでなく、日々繰り返される生と死の回転にも思いを馳せている(つもりだったのだ)。
しかし、ふと現実に立ち戻ってみると、ねむりはそんなに生易しいものではない。浅ければ覚醒するし、薬を入れて深いねむりを得ても、代償として起きたあとのだるさが残る。ぬるいねむりも現実と非現実を行ったりきたりするので結局は浅いときとかわらないし、長いねむりなぞ夢のまた夢である。概念と現実は程遠く、結局ここ1ヶ月で満足にねむれた日は1,2日だ。ことばの美しさも風情も皆無だが、現実としては天外魔境Ⅱで宿の親父が言ってくれる「がーがーと寝ちまえ!」のようなのが至高である。疲れがとれそうだし、何より幸せそうでしょう?
今日も読んでくださり、ありがとうございます。今までは不調になった結果不眠になっていたのですが、今回は逆みたいで、不眠だけがいつまでも残っとります。困ったもんですな。

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