◆たましいの容れ物

筋トレのような「なんだかからだによさそうなこと」がすきだ。わたしにとって、容姿に影響することはけっこう重要なポジションを占めているようだ。昔から自分の容姿の醜さにコンプレックスがあるので、背の小ささや足の短さ等仕方ない部分は多かれど、払拭したい思いは未だ根強い。
ふと「なぜこれらのことがすきなのだろう?」と考えてみる。今までは「体重を減らしたいから」という、可視化されやすい目標があったが、減量してよい数値を保っている。それでも続けている・続けたいと思う要因は一体なんなのか。
見た目がよいのに越したことはないけれど、わたしの場合はそれよりも「自分のたましいの容れ物としての肉体を、健全な状態に保っておきたい」という気持ちのほうが大きいらしい。肉体はたましいと両輪でにんげんといういきものを駆動させる。困ったことに、一方が不調だと必ずもう一方にも影響してしまう。古代ローマの詩人ユウェナリスが「健全なる精神は健全なる身体に宿る」ということばを残しているけれど、体調の悪いときほどこのことばは真実味を帯びるなぁとしみじみしてしまう。
たましいのやることといえば、ものを考えたり感じたりという、いわばこころの運動だ。わたしは趣味が書くこと・読むこと・考えることと、たましいありきのことばかりだ。そういったことをしっかりやりたいので、それにふさわしい肉体を持っていたい。健康であることは当然として、できることなら屈強で美しい肉体に自分のたましいを容れておきたいと思う。だから体重の数値が減った今でも「よい」形をつくるために筋トレを続ける。
とはいえ、今は体調が悪くて心の調子は最悪である。たましいもすっかりしぼんでいる気がする。まぁ、元気なときもたいしたことはしていないので、そこまで大層なたましいではないのだけれど……そういうわけなのだ。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。引用したユウェナリスのことばは調べたところ尾ひれのついたことばらしく、本来は「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るように望むべきだ」ということを言っているのだそうです。なんにせよわたくしといたしましては、とにもかくにも不眠がなくなってほしいものです。

コメント

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com