◆視覚のない夢

 ひょんなことから悪夢の話になった。「単位が取れずに大学を卒業できない夢」だ。夢について事細かに話すと、相手はちょっと間を置いて、こんなことを聞いてきた。

「みかげさんは、夢に景色ってありますか?」

 夢といえばビジュアルがあって音があって(無音のときもあるが)身体感覚も残る。そう話すと、彼はふしぎそうに「そっかー……」とこぼす。聞いてみると、彼の夢には視覚がないらしい。この現実とがちがった夢の世界、というものがあるのだが……見えない。うまくことばで表せないという。同じ「大学を卒業できない」夢をみても見方がちがう。いや、ビジュアルを伴わないのなら「夢を見る」という言い方もおかしいような気がしてくる。夢を感じている?これもちょっと変な感じがする。

 人の情報源の9割は視覚という。たしかにメディア媒体も雑誌新聞テレビyoutubeなどなど、昔から視覚に訴えるものが多い。そうではないのはラジオくらいか。平素感覚する9割のものが失われた世界とは、どんな世界なのだろう。あまりにも気になりすぎて、家に帰ってからもいろいろと考えてみたが、どれもしっくりこなかった。いかに自分が視覚情報に頼って生きているのかがわかる。

 何がきっかけかは忘れたが、他人の感覚を追体験できるようなものがあればいいのにと中学の頃に思った。小学生の頃より脳が発達し、自己主張することを周りが覚えていったために、他人とのズレを強く感じる時期だったのかもしれない。今はだいぶ技術が追いついて、色覚異常のある人の色の見え方や発達障害特有のものの捉え方のなどはインターネットを探せばすぐに出てくるようになった。しかしそうでなくても、もっと素朴な感じ方の違いが見えるようになればおもしろいのにな、と思う。VRが盛り上がっていることだし、多少なりとも実現しそうな気はする。だが一方で、可視化されることによってひととの対話が減少し、想像力が衰える危惧もある。やってみたいけどやってみたくない、難しい欲望だ。

 自分は自分である限り、自分の感覚する世界がスタンダードだとどうしても思い込んでしまう。しかし、そうではない、全くちがった世界の感じ方がある。異なる世界観を話してくれることに対する敬意と、そこから芽生える想像力を大切にしていきたい。

 今日も読んでくださり、ありがとうございます。他者とかかわるおもしろさって共感より差異かもしれません。雑談が苦手な理由もここに???

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