やりたいことがたくさんあるが、自らのキャパシティの問題から、どれかをあきらめなければいけないという帰結に至った。数あるやりたいこと同士をすべて天秤にかけ、軽いものからあきらめることにした。いわば、小さなかばんの旅人である。
何を拾い、何を置いていくかは人によって様々な基準を設けていると思われるが、わたしが大切にしたのは「代替手段があるかどうか」と「やることで生き甲斐を感じられるかどうか」だった。
やりたいことにエントリーされたのは料理、しごと、アトリエにいくこと、ゲーム、読むこと、書くことの6つだ。
このうち、自明に代替可能なものが料理である。外食のように全工程を委ねることも、ミールキットのように一部だけ肩代わりしてもらうこともでき、自由度が高い。そのため、料理は余裕があって、かつ気が向いた時にだけ行うことにした。じっさい、余裕のないところに自炊をねじこもうとしたことは今回の不調のファクターとなっている。
逆に、しごとはわたしの代わりに稼いでくれる人はいない。ただ、最近は稼ぐことのおもしろさを感じているのと、やはりしごと自体がおもしろいのでまっさきに拾った。
アトリエは金銭にならないけれども、そういった指標で計り知れない場所である。時間があればいくらでも行きたいのだが、しごととの兼ね合いで月2回いければ御の字である。それだけの時間だとしても訪れて体験できることは多く、これ以上は捨て置くことができないため、必死になって拾った。月2回、年24回、ちょっとしたイベントごとになりつつある。
ゲームはどこまでいっても遊びの域を出ないため、実利的なことを考えがちなわたしはいつもこういった局面で拾うか置いていくかを悩む。ただ、わたしは発散にあたる趣味が少ないことや、音楽ゲームは努力がきちんと成果に反映されるシステムになっているため、二次曲線的にのびる趣味を持っておいた方が精神衛生上よいと思い、悩みながらもかばんの一番奥にしまった。
読むこと、書くことは、その頻度は下がっているが、全くそういったことをしていない自分というのをイメージできずにいる。究極的なところをいうと、本や雑誌でなくとも、しごとの中で相手の来歴を聞くことは「読む」ことだし、ブログや日記の文章でなくとも、彼らの支援計画をつくることは「書く」ことだと思っている。もっといえば、このような文章を通して自分の人生を組み立てなおすことも、物語を「書く」ことにふくまれている。わたしにとって「読む」「書く」は一般的なイメージより広い範囲をカヴァーしている。そのため、拾うも置くもなく、かばんの底にひっついて取れない。
結局置いてこられたのは料理ただひとつだが、料理のもつエッセンスは構想から片付けまで多岐にわたり、相当なエネルギーを要する活動である。今回ここで置いていくことができたのは「たかがひとつ、されどひとつ」だ。置いてきてみて真っ先に感じたのは、現代社会が料理をしなくてもよい環境になっているかだ。特に外食などは作りたい人と食べたい人のトレードオフが成立しているので、いつも訪れるお店へのありがたさでいっぱいになってしまった。これまで以上に、だいすきなお店にたくさんお金を払いたいきもちになっている。
読んでくださり、ありがとうございます。食事に関しては育った環境の影響が大きいなとひしひしと感じております。
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