■その答え

最初、しごとのスキル的なところで描き始めようと思ったのだが、考えるうちに、別にしごとに限らないテーマだなと思い、エッセイのカテゴリにしてしまった。

相手から何か言われたり、提示されたとき、「そうなのか」と受け入れてしまいそうになることがある。決して悪いことではないのだが、一度疑問をさしはさむことを忘れないようにしている。これは対人支援の関係性だけではなく、ニュースだったり歴史だったりに関しても同じで、誰でも発信者になれるといった時代の功罪なのかなーという気もする。

ちょうど歴史と現代社会に関する動画がおすすめに流れてきて、「事実を事実のまま受け入れるのは危ない」といった、時代への警鐘をならす内容であった気がする。何が言いたいかというと、明確な答えのない時代、すなわち現代において、自分で疑う・ファクトチェックをする・事実どうしをつきあわせるといった、研究の基礎的な能力が超・大事だということだ。それができていると、歴史上のできごとは韻を踏む(繰り返すの意。欧米ではこういう言い方をするらしい。おしゃれだ。)傾向にあるので、対応がしやすくなる。そういった力をつけていけると、いいよね〜という動画だった、と思う。

答えのない時代だからこそ「自分で見つけて進んでいく必要がある」というのは自己啓発の動画や時代についての対話でよく耳にするが、それがどういうことか、イメージできるようでできないような、ふわふわした状態であった。「なんか、今のままで生きていく感じとはちがうんだろうな」とは思うのだが、自己啓発の動画で出てくる人たちは基本的に資本主義社会でうまく立ち回り、場を離れ、その上で問題を説いている屈強な(ピラミッドの上の方にいるような)人々であって、自分たちのような人々(ピラミッドのミドル、ボトム層)とはちょっとタイプが違うかなというギャップがあり、姿を重ねづらいのである。

ただ、今回の話を聞いて、少し輪郭が見えたような気がしていて(それでも、語っていた人は歴史学者の先生なので、同じ層にあるわけではないのだが)、自分で答えを見つける力をもっとつけていかないと、社会や組織に喰われていってしまうなーとボンヤリ思うのだった。ボンヤリ思いつつも、やはり職場からの一定の距離や、自分だけの場所・時間をもって生きていく機会の必要性を感じ、動いていることに間違いはないように思う。

読んでくださり、ありがとうございます。自身の生き方についてもそうですが、新たにかかわる世界のことについても、同じようにちょっと穿って、いきたいとおもいます。

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